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cloverbooks' journal

津島佑子さんのエッセイ「月と少女と竹」

津島佑子さんの訃報に驚き、とてもお元気なお姿を拝見したのに、と思ったのですが、私がお目にかかったのは2013年秋ですから、もう2年以上前なんですね。時間のたつのが早すぎて、大切な方がどんどん亡くなっていくような気がします。

津島佑子さんには、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』をご覧いただいて、エッセイを書いていただきました。とてもやさしくて聡明で、素敵な方だという印象が強く残っています。

 

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(津島さんのエッセイ「月と少女と竹」は『スタジオジブリ絵コンテ全集20 かぐや姫の物語』の月報に収録させていただきました)

 

津島さんがお書きくださったエッセイ「月と少女と竹」から、一部、引用させていただきます。

 

「昔のひとたちにとって、神々につながる領域は今よりもずっと現実的なおそれを感じさせ、同時に、あこがれも掻きたてられるヒミツの誘惑だったにちがいない。夜になるとかがやく月の存在は、大昔からその代表格だった。月に支配される夜こそが、神々と人間の接触する特殊な時間だと認識されていた。そこには聖なる少女が隠されていて、魔術的な物語がその少女の存在から誕生する。

人間ではない女たちも、太陽を避けてそっと人間界に現れる。雪女は吹雪の夜に現れるのだし、深い海の底に住む乙姫も、もちろん太陽の光を知らない。竜やキツネやツルの化身である美しい女たちもいる。異界の女たちは人間の男にヒミツの約束を守らせることで、人間たちを守りたいと願う。けれど、愚かで欲深い人間は必ずその約束を破り、自然界の神々を悲しませ、怒らせてしまう。

では、少女=処女にはどんな意味が託されていたのだろう。ネパールには今もクマリと呼ばれる特別な少女を神に捧げる儀式があるらしいが、言うまでもなくそれは日本の斎宮に通じているし、神社につきものの巫女にも通じる。そして説話の世界では、飢饉や伝染病、それとも魔物から村を守るために、美しい少女を生け贄にするという物語が多く語られている。異界の女たち同様、少女も「神の領域」に属する霊的な存在であり、神々に対してなにか切実な訴えをしなければならなくなったとき、少女なら仲介役を果たしてくれるだろう、とひとびとは信じた。

少女はある年齢になると胸がふくらみはじめ、月のものがはじまる。それは、昔の人間たちにとって、なんという不思議な現象だったろう。ひとりひとりの少女たちに月が降臨し、そののちは、定期的に満ち欠けする月を体内に孕むようになる。少女は月の降臨を待ち受ける存在であるがゆえに神聖なのであり、男たちを容易には寄せつけない。太陽が支配する世俗的な価値観とはべつの場所に生きる霊的な少女たち。

一方で、闘いの少女=処女の系譜もある。ギリシャ神話では、月と狩猟の女神ディアナ、あるいは知恵と闘いの女神アテネが語られている。彼女たちはかなりおそろしい処女神で、自分たちの領域を侵そうとする男たちを容赦なく、冷酷にやっつけてしまう。アテネは武装した姿で有名な女神でもある。

北欧では、ブリュンヒルデという女神が語り伝えられている。戦場で死んだ兵士の世話をする処女神のひとりで、やはり武装している。非情な処女神でいなければならないのに、道ならぬ恋に悩む人間の男女に同情したことを罰せられ、地上に落とされる。人間の特性である情愛に無関心ではいられないこの処女神は、どこか日本のかぐや姫と共通した要素を持っている。そもそも、かぐや姫だって、その正体は月の世界に属し、非情であるべき処女神なのだった。

そう言えば、アマゾネスという女だけの戦闘集団もギリシャ神話で語られている。彼女たちはウマに乗り、弓が巧みで、その弓にじゃまな右の乳房を切り落としていたというからおそろしい。けれど、アマゾネスは実際には、黒海の北方からシベリアまでひろがる大草原をその領分としていたスキタイという移動騎馬集団の女たちを見て、ギリシャ人が作りだした神話だったのかもしれない。

広大なユーラシア内陸部では古い古い時代から、スキタイや匈奴に代表される移動騎馬集団(遊牧民だったり、移動狩猟民だったりする)が活躍しつづけていた。女たちも男に負けず、子どものころから狩人兼戦士として鍛えられる。彼らの移動は夜空の月と星を当てにできる夜に行われていた。月があれば日数がわかり、星があれば自分たちの位置を測ることができる。また、彼らはシャーマンをよりどころとして神々の世界とつながっていたし、通信手段として、文字に頼らない神々の物語をうたいつづけてきた。

農耕定住民族であるヤマト王朝が支配した日本列島にも、じつはこの移動するひとたちが長いこと生き延びていた。神々の物語をうたう彼らは、自然を人間が征服するべきものと考える農耕民族とちがって、自然の営みにしたがって生きようとする。彼らは祈りを捧げながら動物や鳥、魚を必要に応じて得るのだし、樹木から木の器を作り、「竹取の翁」のように竹を刈って、竹細工も作る。月と星にくわしいので暦も作れるし、占いもできる。霊の世界に通じているので、死者の世話もする。平安時代の半ばともなると、ヤマトとは異なりすぎるこうした霊的性格を封じ込めるために、彼らは社会の底辺におとしめられていく。けれど、物語の世界では、彼らの世界が生き生きと再生されつづける。なぜなら、それは人間にとって、あまりに根源的で、魅惑的な世界だから。

竹取の翁と媼がそうしたひとたちだったので、かぐや姫は彼らを自分の育て親に選んで、地上に降りてくる。竹は言うまでもなく、かなり特別な植物で、巫女たちが神々の依り代として手に持つ「手草」は笹竹であり、七夕祭りでも笹竹が欠かせない。竹の驚異的な生命力と、ぐんぐんどこまでも天を目ざしてまっすぐ育つその形態は、神々の世界につながる力を感じさせる。さらに、これほど人間にとって役立ってくれる植物はない。少なくとも、竹の産地である東南アジアから中国南部、日本列島では、竹のない生活など考えられなかった。こんなに大切な竹を扱うひとたちだからこそ、社会的にさげすまれ、貧しさを強いられた。

高畑監督が現代によみがえらせたかぐや姫は、竹取の翁と媼の元で、アマガエル、尺取り虫、バッタ、ダンゴムシなどでにぎやかな野山を裸足で駆け巡り、移動民である少年に心を開き、地上に生きる喜びを心ゆくまで味わう。自然界の脈動に共鳴し、その歓喜に陶酔する、野蛮なまでに野性的な少女。世俗の人間たちが金儲けに眼がくらんで、神々との約束を破り、地上の美しさを踏みにじりつづけている今の時代、とりわけこのかぐや姫の純粋な喜びに、人間のひとりである私の胸は苦しくなる。」

 

人類史をふまえたスケールの大きな発想と該博な知識で、かぐや姫というミステリアスな存在を読み解いてくださいました。

津島さんから原稿が送られてきて、最初に読んだときの、シーンと心が静まり、闇夜のなかで月明かりに照らされているような、冴えわたる闇の心地よさに、しばらくこちらの世界に戻ってこれませんでした。

(上記、引用にしてはちょっと長すぎるかなと思いましたが、とても素敵なエッセイなので、もっと多くの方に読んでいただきたいなと……)

 

津島さんは、著書『女という経験』のなかで、シュメールのイナンナ、『ギルガメシュ叙事詩』のイシュタル、ギリシャ神話のアルテミス、ローマ神話のディアナなど、古今東西の処女神についてお書きになっていて、こうした狩猟や戦いの女神は、自然の豊穣を象徴する一方で、激しさや残酷さをもち、男性を拒絶する月の女神でもあると書かれています。「かぐや姫」もこうした古代からの処女神の系譜につながることを感じて、津島さんに『かぐや姫の物語』を観ていただきたいとお願いしたのでした。

 

女という経験 (問いの再生)

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津島佑子さんのエッセイ集『本のなかの少女たち』に、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフについて書かれた章があります。このキャサリンとヒースクリフの濃密な関係性については、『かぐや姫の物語』で描かれた、かぐや姫と幼馴染の男性との関係を読み解く上でも参考になるかもしれません。

 

本のなかの少女たち

本のなかの少女たち

 

 

そういえば、高畑監督が「少女の非情さ」というものを考えるときに、太宰治(津島さんのお父様ですね)が『お伽草紙』の「カチカチ山」で描いた兎の少女の姿にすごく触発された、ということを聞いた覚えがあります。

 

お伽草紙 (新潮文庫)

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かぐや姫の物語 [Blu-ray]

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高畑勲監督作品集 [Blu-ray]

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