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cloverbooks' journal

『冬ソナ』&ヨン様現象を勝手に徹底分析!

 ヨン様結婚のニュースを聞き、結婚を寿いで、以前、エキサイトブックスに書いた『冬のソナタ』についての記事にリンクをはろうと思ったら、消えているではありませんか!? 雑誌に比べたらネットのほうが寿命は長いと言うけれど、ネットといえども永遠ではなく、いつか消失するのは生者必滅の理なり。

というわけでリンクがはれなかったので、原稿を下記に抄録再掲します。

ちなみに、この記事を書いたのは、『冬のソナタ』がNHK総合で放送された(2004年4月3日~8月21日)タイミングです。

 *追記もあります。

【初出:エキサイトブックス 2004年8月】

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とどまるところを知らない『冬のソナタ』&ペ・ヨンジュン人気! NHK地上波での放送もいよいよ最終回だが、このブーム、まだまだ続きそう。『冬ソナ』&ヨン様現象を勝手に徹底分析!

 

『冬ソナ』にハマッてる自分にビックリ!

8月21日(土)でいよいよ最終回を迎える『冬のソナタ』。しかし、早くも年内にノーカット・韓国語(日本語字幕)版の放送も決まり(これで再々々放送)、ヨン様のCMも続々とオンエアされ、『冬ソナ』旋風は全然おさまりそうにない。中年女性のご多分にもれず、しっかり『冬ソナ』にハマッた筆者が、ここらへんでちょっと冷静になって、この5ヶ月間、私に吹き荒れた『冬ソナ』の嵐を振りかえり、この現象について考えてみました。

4月3日、ペ・ヨンジュン初来日。まだ『冬ソナ』感染前だった私は、羽田空港に集まった5000人の女性ファンの映像を見て驚いた。なぜ主役の男性がヨン様と呼ばれ、中高年の女性をこんなに「萌え」させているのかぜんぜんピンときてなかった。友人(私と同じ37歳独身女性)が、『冬ソナ』の番宣写真(雪山で主役の二人が抱き合う写真)を見て、「この坂崎幸之助アルフィー)にソックリな人の、どこがいいわけー?」と言ったが、まったく同感だった(←坂崎さんすみません)。

ああ、私はなんてバカだったのか。自分の目がいかに節穴か、その後、思い知った。ドラマの中で動いているペ・ヨンジュンのカッコいいことと言ったら! スチール写真の坂崎幸之助と、ドラマの中で動いているヨン様とは別人だった。しばらくすると「坂崎幸之助」と言った友人も、見事にハマッっていた。まさに改心、悔い改めてヨン神様に許しを請う私たちだった。それにしても4月3日の時点では、多くがNHK-BS2の放送で見てファンになった人たちで、それでも5000人なんだから、今、ヨン様が来日したら、空港に10万人くらい殺到するんじゃないだろうか。

しかし、「まさか、私まで・・・・・・」である。最初は、そんなに話題になっているなら、と軽い気持ちで1回目を見た。で、「ああ、これは結構、好きだわ」と思った。そこにあるには、昔懐かしい少女漫画の世界。高校生のチュンサンもカッコよかった。でもまだその程度。本格的にドボッとハマッたのは、6回目の「忘却」の回だった。深夜帰宅して、録画したのを見始めたところ、気がついたら、そのまま5回繰り返して見ていた。すっかり朝だった。まさに「ハマる」とはこういうことを言うのか。それまで感情を抑えてきたユジンが、酔っ払ってミニョンをチュンサンだと錯覚し(それが正解だったんだけど)、ポロポロと涙をこぼしながら「どうして知らんぷりしてたの?」と訴える場面で始まり、ミニョンのかわりにユジンがケガをして「いったい、この先どうなっちゃうの~?」ってところで終わるのが6回目。もう、次が見たくて見たくてたまらない。即座にアマゾンでDVDセットを注文。届くまでの2日間ずっと心臓がドキドキ、なんてもんじゃなく、心臓がバクバクしていた。いやあ、ほーんと、こんな胸のトキメキは長いあいだ忘れてましたよ。で、届いてからは、もうDVDを見ることしかできない。号泣しながら最終回まで見たら、すかさず1回目に戻って見るのエンドレス・リピート状態。

「見たいもののすべてがここにある」

と思った。自分の中にあるファンタジーを100%満たしてくれるもの。そう、これが見たかったのよー! やっと運命のドラマに巡り会えた!! そんな喜び。37歳の一応は分別のある大人の私としては、これは現実にありえないファンタジーだと、よくわかっている。でも、だからこそいいの。現実離れしてるから、いいんじゃないの。現実では満たされない心を満たしてくれるのが、ファンタジーなんだから。以来、すでにこのDVDの1~20回を通して50回くらいは繰り返し見てるんじゃないか。でも、ちっとも飽きる気配がない。たぶん一生、飽きないと思う。もう現実の恋愛なんて要りません。こっちのほうがずっといい! 『冬ソナ』のDVDがあれば、一生、幸せに生きていける!

韓国語版だとペ・ヨンジュンの魅惑の低音ヴォイスが聴けるので、さらにドラマの魅力倍増だった。あの声で「ユジナァ」(親しみを込めて呼ぶときには、名前の後にアをつけることもわかった)と言われた日にゃあ、もう芯からとろけます。ヨン様の「ユジナァ」と、チェ・ジウのちょっと舌足らずな発音の「チュンサガァ」の応酬が耳に心地よく、しだいに「コマウォヨ(ありがとう)」「ミアネヨ(ごめんなさい)」といった頻出単語がどんどん耳に残っていき、「チュンサンとユジンが話している言葉を理解したい!」「オリジナルのシナリオを読みたい!」という思いが募ってきた。『冬ソナ』には、女心に響くロマンチックなセリフが満載なのだ。ユン・ソクホ監督も、ユン・ウンギョンとキム・ウニという女性ふたりの脚本家も、メロドラマとは何たるかをホントによくわかってらっしゃる。

で、『「冬のソナタ」で始める韓国語~シナリオ対訳集~』を買って、DVDを見続ける日々。「記憶」「約束」といったドラマの鍵となる言葉は、韓国語も日本語も同じ(発音はちょっと違うけど)。だからセリフを聞いていると「記憶カㇽケ(忘れない)」「約束イッソ(約束がある)」といった言葉が聞き取れるので、よけいにググッとドラマに入ってしまう。その他にも、「継続」「理由」「準備」「時間」とかの漢字2字の言葉に共通のものが多く、「ああ、昔、同じように中国から漢語を輸入した文化なんだなぁ、兄弟みたいな文化なんだなぁ」と、知識として知っていたことが、実感としてわかって親近感が湧いてくる。そんな共通点も感じれば、違いも感じる。「正直マレバ(正直に言って)」とか、「チョンマリア(本当?)」と問い詰めるセリフが多く、ストレートに感情をぶつけ合っていて、「韓国の人にとっては、正直であることが美徳なんだなぁ」ってことを感じる。そこらへんは、本音と建前を使い分け、感情はほのめかす程度にとどめ、婉曲話法の日本人とは違う。でも、だからこそ建前社会に疲れた心には、このストレートさが快感です。

『冬ソナ』にハマッた人のお決まりコースとして、見られる韓流ドラマはついつい見てしまうようになる。気がつけば、1日のうち、日本語より韓国語を聞いている時間のほうがずっと長いようになり、どんどん韓国語のボキャブラリーが増えていく。ふと我に返ったとき、「何やってんだ? 私は」と愕然とする。がしかし、そこは学んだばかりのケンチャナヨ精神、ぜんぜん大丈夫じゃなくても「ケンチャナ(大丈夫)!」で済ますスーパー・ポジティブ(というか、アバウトというか)な発想で、都合の悪いことはすぐに忘れるのだった。

 

『冬ソナ』ヒットの理由(1) 少女マンガの刷り込み

『冬ソナ』のテーマは「初恋」。脚本家ユン・ウンギョンとキム・ウニの二人が考えたドラマのコピーは「・・・・・・けれど、初恋が再び私を呼んだら、どうすればいいの?」。これはドラマ中にも登場した詩の一節。結論から言うと、この「初恋の人との再会」という設定こそ、こんなにも『冬ソナ』に日本中の中高年女性が萌えた理由だ。

『冬ソナ』のペ・ヨンジュンを見て感じたのは、「岩館真理子先生のマンガに出てくる男の人みたい!」ということだった。学生服のチュンサンしかり、メガネのミニョンさんしかり。『冬ソナ』は、少女マンガ的な要素が極めて強い。『冬ソナ』DVDに収録されたインタビューでユン・ソクホ監督も、ペ・ヨンジュンの魅力を「少女漫画に出てくる理想の王子様みたいな雰囲気がある」と言っている。脚本家たちも、韓国でもヒットした『キャンディ・キャンディ』に、少なからず影響を受けていると語っている。『キャンディ・キャンディ』といえば、私などはまさに小学生の頃、マンガとテレビアニメのダブルでどっぷりハマッた世代だ。数年前、いがらしゆみこ先生にインタビューさせていただいた際、改めて読み返して号泣しながら、自分がどれだけ『キャンディ・キャンディ』に深く影響されていたのかを思い知った…。漫画の世界にしか生息しないと思っていた「理想の男性」が、この3次元の空間に、生身の肉体を持って存在していることの驚きと感動。昔ハマッた少女漫画の実写版を、30年後の今、テレビで見られるなんて。これでハマらないわけがない。

文芸評論家の斎藤美奈子さんが、これについて明快に書いてらっしゃる。

「次々と来日する韓国男優の異常な人気ぶりを見て、ふと思った。もしかして、ここはマンガの国だったの? ペ・ヨンジュン、どこがいいんでしょう。『ヨン様』とかって『様』づけにすること自体、薄気味悪い。が、彼が私と同世代のオバサマ方に人気があるのはわからないでもない。ペって昔の少女マンガに出てくる男のコそのものなんですよね。顔も表情もファッションも脚の長さも。たとえばそうだな、陸奥A子あたり。あんな男は七〇年代のマンガの中にしか存在しないと思っていたのに、あら、ここにいたじゃないの、長生きはするものねえ・・・・・・とか、そんな感じ?」

(「婦人公論」2004年7月22日号 「朝鮮半島に住むマンガ的な2人」)

そうそう、そんな感じ!! 「生きててよかったー!」ですよ。ヨン様の出現は、まさに「初恋の男性との再会」。少女の頃にマンガの世界で出会った初恋の男性に、オバサンになってテレビの中でふたたび巡り合ったわけで。こうして『冬ソナ』における「初恋の男性と再会」という設定は、ある年齢層以上の日本人女性にとって、単なるドラマの枠を越え、自分の人生に起こったことになってしまった。自分とユジン(チェ・ジウ)の区別がつかない状態(ずうずうしい!)。そりゃ『冬ソナ』にハマって旦那の面倒を見なくなり離婚に至るという、『冬ソナ』離婚だってしますとも。

さらに斎藤さんは、「南のヨン様」に対して「北の将軍様」(金正日)を忘れない。ヨン様が少女マンガの理想の王子様キャラなら、将軍様は、少年マンガの典型的な悪者キャラ。

「少年少女時代の刷り込まれた物語の記憶で、私たちは世界を見る癖がついてる気がしてしょうがないのだ。(略)まー、ペとの擬似恋愛くらいならいいですよ。だけど現実の日朝交渉を少年マンガのセンスで考えるのはどうか。(略)物語みたいな展開を期待しちゃだめなんですよ。恋愛も国際関係も」

おっしゃる通り。現実とフィクションを混同するのは危険です。でも、フィクションはフィクションだとわかったうえで、「現実の恋愛もやってみたけど、でも、マンガのほうがもっといいわぁー」ってのもアリだと思うんです。だって楽しいんだもん!

先日、翻訳家の柴田元幸さんにインタビューさせていただいた際(*リンク先が消失)、アメリカと日本の女性作家による文学の違い、そのベースとなる文化の違いについて、次のような興味深い話を聞いた。柴田先生のお話を聞きながら、そっかー、『冬ソナ』ブームは日本で起こるべくして起こったんだなぁ、と思った。

「アメリカの現代女性作家による基本的なメッセージは、『男はわかってくれない』。『わかってくれない阿呆な男』と、『わかってもらえない繊細な私』っていう図式がある。これが日本だと、『男はわかってくれる』なんですよ。よしもとばななにしても、ものわかりのいいお兄さんが出てきて、そのお兄さんがやさしく包んでくれることで、救われる気になれるというのがあって。島本理生などを読んでも、『ホントにこんなにいい男の人がいると思ってるのかな』って心配になったり。そういうのはアメリカだと禁じ手なんです。もちろん、どっちが正しいとか偉いとかいう話じゃないですけどね。もともと日本には少女漫画と宝塚がある。レベッカ・ブラウンが日本に来たとき、宝塚を見て『世界のどこにもこんなものはない。すごい』って驚いていた。宝塚の男役は、女性が扮装してるんだから、下半身の脅威がない。そういう宝塚、少女漫画、よしもとばななの『威嚇しない男』のラインって、日本独特かもしれないですね」

下半身の脅威のない、女性を守り、優しく包んでくれるお兄さんのような男性。それこそチュンサン/ミニョンだ。『冬ソナ』の中で、チュンサンがユジンに「キミを守ってあげられなくてごめん」という場面がある。愛する女性を守ってこそ男、というのが前提になっているセリフですね。このワールドにはフェミニズムなんて言葉は存在しません。そして、肉体的接触も「手をつなぐ」「おでこにキス」「髪をなでる」、最大時で「おんぶ」だ。

海辺の初夜(とユジンが冗談っぽく言う。「新婚旅行」と訳されてますが、実際には「初夜」と言ってる。だからチュンサンもギクッとした顔をする)ですら、その時点で「血のつながった兄妹」だとチュンサンは思っているので、もちろんプラトニック。まさに、下半身の脅威のない、妹を守り、やさしく包んでくれる、いいお兄さんなんですよね。

昔は血縁のあるなしにかかわらず、「愛しい女性」のことを「妹(いも)」と呼んだ。妹背(いもせ。夫婦、愛し合う男女)は、妹(いも)と兄(せ)のこと。なんでもゲームや少年マンガの世界では「妹萌え」というジャンルが盛況だとか。日本限定ってわけでもないでしょうが、兄と妹の関係というのは、なかなか根が深そう。

ともあれ、日本の女性たちが潜在的にもっている兄妹願望にも、『冬ソナ』はピッタリだったのかもしれない(でも、男性たちの「妹萌え」と、女性たちの「兄萌え」は、永遠にすれ違いかもしれない)。ユン・ソクホ監督も、兄妹の設定が好きらしい。『秋の童話』でも、兄妹だから結婚できないという設定だった(血がつながってないんだから何の問題もないと思うが、兄妹として育った以上ダメ、という発想は、ちょっと日本人にはわかりにくい)。

ところが、かの渡辺淳一先生によれば、『冬ソナ』がダメなのは、セックスが描かれてないからだそーだ。

「男たちは、若者から年配のおじさんまで、この種の、甘いだけの恋物語は、生理的に苦手。そしてなによりももの足りないのは、セックスが描かれていないことである。(略)性の深い絆が生じてこそ、本当の純愛は成り立つのだが、そこまで描く自信がなかった、というわけか。こうして描かれているのは、いわゆるプラトニックラブだけ。そういうきれいごとで逃げているところが、ドラマを独りよがりで、底の浅いものにしていることは否めない」

(「週刊新潮」2004年8月12、19日号より)

さすが『失楽園』の著者だけあります。ぜ~んぜん、わかってませんね、『冬ソナ』が素晴らしいのは、生々しいセックスがないからです。多くの女性が恋人に求めているのは、passionよりも affection。とりわけ愛情を言葉で伝えくれることですね。ところが、いかんせん日本男児というのは、気持ちを言葉にしませんから、日本の女子は、恒常的に愛の言葉には飢えている。かといって、いきなり情熱的な愛の言葉をささやかれても、ウソ臭く聞こえるし、そんな男性はまず詐欺師だと警戒する。だからこそ、ヨン様のソフトな低音ヴォイスで「サランハムニダ」と言われると、ストレートな愛の告白でありながら外国語なので霞がかかったように幻想的という、ちょうどいい塩梅なんです。

言うまでもなく、『冬ソナ』のヒットは、ペ・ヨンジュンの魅力なくしてはあり得ない。日本の女性はヨン様みたいな顔が好きなのだ。本人は、自分の顔を「あいまいな顔」とコンプレックスに思っているらしいけれど、だからこそ「あいまいな日本」では美しい顔なんですよ。「あいまいな顔」ゆえに、髪形や眼鏡、カメラのアングルなどの諸条件によってぜんぜん違った顔に見える。25点のときもあれば、200点のときもある。振り幅が大きい。そこが素晴らしい。

思うのは、「宝塚の男役のようにカッコいい」ということ。立ち居振る舞いが美しい。「宝塚の男役のようにカッコいい」というのは、男性に対する最高の褒め言葉。宝塚の男役さんが麗しいのは、理想の男性像を演じているから。この世ではありえないものを、厳しい鍛錬によって創り上げ、舞台の上で美しいイメージとして見せてくれる。逆に、お能や歌舞伎で男性が女性を演じるのは、女性が女性を演じるより、男性が女性を演じるほうが、理想の女性を表現できるからですよね。

ヨン様は、生物的にも男性なのに、宝塚の男役のようにカッコいいのは、なぜか。

それは「器」に徹しているから、だと思う。あるいは「鏡」というか。みんなのファンタジーを一身に受け止める「器」、ファンタジーを映す「鏡」という役割に徹っしているからなのでしょうね。

ヨン様の演技について、ワンパターンだとか、顔の表情にヴァリエーションがないなどと言う人がいるけど、それで結構と思う。「様式美」なんだから。「型」だから、いいんですよ。能面と一緒で、そのほうが見る側はいろんなことを感じとれていいんです。

 

『冬ソナ』ヒットの理由(2) メロドラマの王道

『冬ソナ』の成功は、音楽の力も大きい。『秋の童話』と比べても、『冬ソナ』は音楽面でグレードアップしている。主題歌の「最初から今まで」は哀愁たっぷり、主題歌と並んで人気のある「My Memory」は少し明るい気持ちの場面で。チュンサンがピアノで弾く「初めて」や、初雪デートのバックには「あなただけが」といった名曲の数々が、アレンジを変えたりして繰り返し流れる。情感高まるところに音楽あり。映像美と役者の演技と音楽が合わさって、グググッと胸に迫る。これぞ、メロドラマの王道。

で、ちょっと、メロドラマのお勉強を。メロドラマとは、メロディーのあるドラマの意味。18世紀にイタリアとフランスで誕生した、芝居の中に音楽が挿入された大衆演劇。それがイタリアではオペラの一部に、フランス、イギリス、ロシアでは小説として発展した。というのは、すべて四方田犬彦さんの『NHK人間大学 映画はついに100歳になった』(日本放送出版協会)の第11回「メロドラマのすばらしさ」の受け売りです。  

映画はついに100歳になった (NHK人間大学)

映画はついに100歳になった (NHK人間大学)

 

 四方田さんが、メロドラマの特徴として、大きく3つを挙げているので、それを要約すると、

1 メロドラマには、女性の無意識の欲望がいろいろな形をとって表現されているので、自分のもうひとつの人生であるかのように、画面のなかで語られている物語に自分の無意識的な欲望を投影、そして心理的なカタルシスを体験できる。

2 ほかの映画のジャンルが、女性を男性の欲望の対象としてしか描いていないのに対して、メロドラマは女性を主人公としている。メロドラマは、氾濫しているように見えて、実は極めて特殊なジャンル。

3 ヨーロッパで生まれたメロドラマに相当する大衆演劇は、非ヨーロッパ文化圏にもあり、舶来品としてのメロドラマに、ローカルなテーマやプロットを採用し、その民族や文化の大衆演劇の伝統、また物語、俳優、スタッフ、観客といったものを受け継いでいる。

とくに3つめにハッとした。『冬ソナ』を見て感じるのは、伝統芸能に感じる様式美だったので、メロドラマは伝統芸能の流れにあるもの、というのを読んですごく腑に落ちた。お能文楽には恋愛がテーマの名作がたくさんありますが、リアルなセックス場面なんて出てきません。秘すれば花。ドロドロしたのを描かないからこそいいんですよね。しょぼいリアリズムを追求したものじゃなく(つまらない日常の縮小再生産なんて見せられても、ますますつまらん)、日常にはありえない美しいものが見たいのだ。そこに音楽は欠かせない。『冬ソナ』は、「メロドラマの普遍的な文法」どおりにつくられているからこそ、国境を越えて愛されてたのでしょう。

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追記:

上記の原稿は、2004年に書いたものですが、「『冬ソナ』が伝統芸能の流れを汲むこと」については、内田樹さんが2006年に書かれたコラムで、すばらしく的確に解説されていました。

内田樹「冬のソナタ再論」(2006年12月31日)

現生人類がその他の霊長類から分岐する時点で何があったのかというと「葬送儀礼」。人間は死者を埋葬して花を捧げて死者に語りかけたときから人間になったんですね。「死=0、生=1」だけではなく、マイナスという膨大で潜在的な時空間を発見したというか。

で、内田さんが指摘されているのは、『冬ソナ』に描かれているのは、死者が姿を現して生者に語りかける、服喪者と死者のあいだに通信ラインがつながった瞬間であり、それが感動をもたらすのは、人間が人間になった瞬間を追体験できるからであると。そして、『冬ソナ』はまさしく「複式夢幻能」の形式になっていて、前シテがミニョンで、後ジテがチュンサンだという指摘は、言われてみれば本当にその通り! これだけ大衆心理(おもに女性ですが)にアピールした『冬ソナ』がもつ人類史的スケールの吸引力について、とても納得がいったのでした。