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cloverbooks' journal

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ インタビュー「私はいまも悌二との関係をつくるために自分の何かと格闘しながら生きているような気がする」

このブブ・ド・ラ・マドレーヌ(BuBu de la Madeleine)さんへのインタビューは、1995年10月29日に急逝された古橋悌二 *1 さんの追悼特集として、フリーペーパー「review」に掲載させていただいたものです。

ブブさんのご許可を得て、ここに再録させていただきます(一部加筆訂正しています)。

お話をうかがったのは、1995年12月9日。ダムタイプ *2 のメンバーである小山田徹 *3 さんたちが運営されていたウィークエンドカフェ http://www.archive-project-90s.com/a02.html(@京都大学YMCA会館 地塩寮)においてでした。

 

【初出:「review」6号 1996年1月26日発行】

 

ブブ・ド・ラ・マドレーヌ  インタビュー

「私はいまも悌二との関係をつくるために

自分の何かと格闘しながら生きているような気がする」   

 

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    Teiji Fufuhashi  1995   photo by Tony Fong

 

――BuBuさんにとって、古橋さんはどういう存在だったのでしょうか?

 

BuBu 悌二との関係が私の人生にあまりにも大きな影響を及ぼしているので、一体それが何だったのかということを言語化することに、かなり時間を要とするという気がしています。恋人ともいえないし、親友、パートナーといっても漠然としているし、私たちの関係を表す言葉が無かったんですね。彼が男で私が女、彼がゲイで私がヘテロセクシャルで、そういうふたりの関係というのは、ふたりでつくるしかない。すでにそういう関係が日本社会にゴロゴロしているのであれば、こういうときにはこうっていう判断ができたかもしれないけど、それが全くできない状態だったんです。

だけど、彼にはひとつのヴィジョン、関係のつくり方に対するヴィジョンがあったと思います。私は常に彼から教えられているっていう感じがしていました。私は彼の教育を頭で考えるんじゃなくて、欲望のレベルで受けて立っていた。私の人間としての欲望、アーティストとしての欲望、ヘテロ女としての欲望というものをベースにした上で受けて立っていたんですね。それを彼は面白がっていたし、彼が面白がることが私にはすごく面白かったから、そうしてつくっていく関係でした。彼が新しい人間関係のヴィジョンを持っていたことは、彼のまわりにいる人間全員が感じていたと思うんです。全員がそれぞれの立場で受けて立とうとしていたと思うし、いまも変わらずそれを続けていこうとしていると思うんですよ。

ほんとにラッキーだったのは、「S/N」 *4 というパフォーマンス作品の中で、私が私自身を発見する、自分自身の表明のしかたを発見することができた点です。そのきっかけをつくってくれたのが、それこそ命がけでつくってくれたのが彼だった。もちろん彼は私のためにつくろうなんてさらさら思ってなかったし、彼としてはすべての人に対してするのと同じように私に接していたにすぎないと思うんですけど。

 

――新しい人間関係のヴィジョンについて、古橋さんはどんなふうに話されていましたか?

 

BuBu 具体的に言葉にしては言わなかったですね。その伝え方、伝え合い方自体が発明っていうか。どうやってそういうヴィジョンを伝えるかっていうこと自体が関係性の発明だと思うんですよ。だから例えば、今、私と平林さんが話していて、座る位置のとり方とか、相づちの打ち方とか、視線の合わせ方ということ自体が、すでに私たちは私たちふたりの関係をつくっているわけですよね。たいていの場合はそれがふたりの間の力関係と切り離せない。つまりふたりの間の性差、能力の差、経済力の差、民族の差など……。私と悌二は、そういうことへの絶望を経ていたから、権力と依存についてシビアだったのだと思う。

いつもそれはある種の緊張関係を伴っていました。私自身のそもそもの発端は、人間関係のひとつである夫婦っていうもののあり方に依存していた自分への反省からスタートしてるんです。夫婦という関係をすべて否定するものではないんですけれども、私自身がそういう既存の制度や関係性に依存していたことに対するすごく深い反省があったので、だから悌二のヴィジョンにもピンとくるところがあったんですね。

 

――「S/N」のラストのBuBuさんのシーン *5 はすごく感動的なんですが、あれもBuBuさんがご自分で考えたんですか?

 

BuBu どうしてあそこであのシーンがあるかというと、「S/N」をつくり始めた頃のダイヤモンド・ナイト *6 のプライベート・パーティーで、「ストリップ」というテーマでそれぞれのアイデアを披露するというのがあったんですね。その頃、私は貪欲に(ヘテロ男性との)恋愛と仕事に奔走していて、その中で自分の性器について、これは確かに私の肉体の一部分であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ、私が好きなように使えるんだ、というポジティブなショックというか確信を得たところで、本当に唐突にあのヴィジュアルが浮かんだんです。で、ショウの日の朝、キディランドの手品売り場でシルクの万国旗を買って、ひょっとしてこうすればできるんじゃないかなって、楽屋で初めて実験してみたんです。コンドームに旗を詰めて体の中に入れて引っ張り出したら、うまくいったんですよ。うまく出たときの感動っていうか、おかしさっていうか、こんなに膣っていうのは単純なもんなんだなっていう、あほらしさっていうか。それに感動して、その晩にすぐショウをやったんですけど、それがものすごく受けて。悌二を含め、その場にいた人を喜ばせることができたんで私は満足してたんですけど、悌二がそれを「芸術的や」って言ったんですよ。すっごい喜んで。でも悌二が芸術的と評したのは、そのときは皮肉やと思ったんです。人様にお見せできるものの臨界やと思いましたから。だから「S/N」のミーティングで悌二がそれを舞台上でやろうと言い出したときにはほんまに驚いて。今はそれを発見してくれた彼に感謝してますけど。

 

――あのシーンには、大いなる女性のパワーを感じました。それに、なぜか私は古橋さんにも、母性というか、偉大なる女性性みたいなものを感じていたんですけど。

 

BuBu 母性というのも危険な言葉で、それぞれの思い入れとかが特に多い言葉やと思うんです。私は平林さんがおっしゃった母性を、生命自体の性質に近い意味だと理解したんですけど、悌二自身は確かにその視点は持っていた。私たちに自分がHIV陽性であることを公言してからは特に。生命全体に対する尊敬みたいなもの。言語化はなかなかしはらへんかったけれども。人間の生命に対する確信、人間の可能性を信じることの強さ、みたいな。だから対象が女性である場合は女性の素晴らしさになるし、男性なら男性の素晴らしさになるし。

 

――古橋さんから受けた「教育」には、たとえばどんな内容があったんでしょうか?

 

BuBu 「WOMAN’S DIARY」 *7 にも書いたんですけど「ひとりの男にすべてを求めるなんて私にはできない。あなたとはおいしい食事。あなたとはめくるめくセックス。あなたとは幸せな添い寝。あなたとは朝まで尽きない会話。私の『愛』はばらばらに存在する。(それが苦しすぎるときもあった、でも)ばらばらでもいいじゃない」。私のこの考え方というか欲望のしくみは、彼の「教育」の成果でしょう。

私自身は12、3年前に悌二のことが本当に男として好きだったんです。でも彼はホモセクシャルでかつポリガミー。モノガミーは一夫一妻制、ポリガミーは、直訳すると多方向性、意訳すると乱交性、ばらばらに愛が存在するタイプってことですね。彼はポリガミーな生き方を私に教育しました。もちろん私だけにではないですけど。それを受け止めることによって、最初はすごく傷つきました。でも傷ついたり孤独を感じたりしながら、それを学んでいったんです。例えば初めて私がダムタイプの海外ツアーに参加したときのこと。ウィーンだったんですけど、私は悌二やみんなとウィーンにいるというだけでうれしくて興奮してたんですけど、最初の夜に彼はウィーン在住のボーイフレンドとさっさと遊びに行っちゃった。私は「へ?」って感じで、一瞬「しーん」として、でもすぐに「あ、そーか」って了解して、私なりのウィーンの夜の「楽しみ方」をすぐに開発した。それ以降、私と彼とは互いの恋とセックスの質と量を競い合うようになりました。お互い相手にとって不足はなかったですね(笑)。ただ、そういう相手を彼は私の他にもいっぱい持ってた。だからこそ私もでき得たというか。結局、本当に相手が何を望んでいるのか、何がこの人を喜ばせるのか、そのために私は何ができるのか、ということに心を砕いてきたという気がします。

 

――いまもBuBuさんにとって、古橋さんを喜ばせるために生きることが、一番大事なことですか?

 

BuBu なかなか鋭い質問ですね(笑)。ポリガミーを目指しているのに実は私はモノガミーじゃないかという。でも、それは、そうです。つまりそれは悌二に直接何かをするということではなく、私が誰をどれだけ、どのように喜ばせるのかに、彼は興味があるんだと思う。ただ、今は彼の反応がないだけに……。そこで「死ぬ」ってなんやろうっていうことになるんですけど。反応がないってことは、自分自身の中で問いを投げかけて答えを見つけていかなくてはならないですよね。でもね、その訓練さえも私は彼から受けてたっていう気がしてて、結局は自分で答えを出すんだよ、という簡単なことなんですけど。

悌二がHIV陽性であることを知ってからは、私の見えないところで彼の病気が進んでいるということが、私にとって最もつらいことでした。彼がひとりで闘っているのに、私は離れたところにいる。でもそうやって悌二は悌二、私は私で生きていかなくてはならないんだ、みたいなことをつきつけられる。特に夜中。別々の家で寝ている時とか。または看病のために一緒にいてもそれは同じことなんですね。彼の肉体は彼のものだし、私の肉体は私のものだから。その苦しみ、喜びはその人だけのもの。あなたの苦しみがわかりますとか、あなたの喜びは私の喜びとかって勘違いしやすいんだけど、現実はそうじゃない。ただ、いかにして相手の苦しみを減らし、喜びを与えることができるかということだけ。それはその人個人の想像力、創造力の問題です。孤独に直面せざるを得ないような関係、それが彼のヴィジョンのひとつだと私は受け止めてるんですけど。そういう練習を積んでいたから、彼が死んでからもあまり状況は変わってないんですよ。

 

――(1995年)8月末に、古橋さんに少しお話を聞いたときに、BuBuさんのお話が何度も出てきて、古橋さんにとってBuBuさんの存在の大きさを感じました。

 

BuBu 悌二には、人生のある時代ごとに大きな影響を及ぼし合った人間が何人かいると思うんですけど、たまたま最後に私に順番がまわってきたというだけで、生涯を通じてというのではなかったと思います。でも、ブラジル公演から帰ってきたら一緒に住もうっていう話になっていました。彼自身、自分の病状の進行を感じていて、病状が末期になった友だちを何人も看てきていたから、やっぱり最期を看取るパートナーが必要だと感じていたようです。その話をふたりでしたときに、彼が一緒に住もうって言いました。私も同感でしたから、ブラジル公演の直前に部屋も借りました。彼はそこで療養してそれを私が助けるという新たな局面を迎えることになっていたんですけど。ただし私ひとりでは不可能だと思えましたから、周囲の人たちと協力してやっていこうと考えていました。彼が私を選んだのも、私がいろいろな点でギリギリ自立していること、だから周囲にもなんとか開けている存在だと判断したのだと思います。

それと、現代の日本における社会活動のあり方に対して、私は特に「S/N」以降は実践しながら考えようと思っていて、その点において彼は私を信頼してくれていたような気がするんですね。「S/N」のミーティングで、初めて彼が「アーティストとアクティビスト」と言ったときの「あっ」という感覚をいまでも覚えています。アートとアクティビズムの関係に対するイメージをシフトチェンジさせていこうというヴィジョンを共有できるという点で、信頼してくれていたと思います。

 

――アート=アクティビズムというイメージですか?

 

BuBu イコールではないですね。100%のアーティストもいるやろうし、100%のアクティビストもいるやろうし。でもアートとアクティビズムはつながっていて、その間にはグラデーションがあるんじゃないかという気はしてるんですね。それをイメージできる人はまだすごく少ないと思うんですけど。エイズがひとつのきっかけとなって、アートとアクティビズムのグラデーションなり、つながりなりを発明した文化、たとえばNYの文化があって、それに気づかされた私たちがいて。「人を救う」ということは、どういうことなのか、ということになると思うんですよね。それはそれで込み入った話なんですけど。

 

――ブラジル公演中に古橋さんがお亡くなりになって、ダムタイプの皆さんは、古橋さんの臨終には立ち会えなかったんですか?

 

BuBu そうです。張由紀夫 *8 さんたちが最期を看取りました。張くんはAPP(AIDS Poster Project) *9  のメンバーで、彼も私と同様、悌二からの教育を全身で受けて立った人のひとりです。私たちがブラジルに出発するときに、張くんと鬼塚哲郎 *10 さん、このふたりに悌二のことを任せようと思ったんです。エイズに対する理解、セクシュアリティに対する理解、生と死の関係に対する理解などを共有できる部分が十分にあったから、私にとって最重要な事柄である悌二の看病を任せることができたんですけど、そもそも血縁の家族ではない人どうしが、そういう関係をそれまでの2、3年の活動の中でつくれたっていうのもすごいことやと思います。

京都の病院に運ばれた悌二が危篤だと連絡が入った時、ブラジルという日本から地球上でもっとも離れた場所で、15人のダムタイプのメンバーは、今すぐにでも帰りたい、でもあと2回公演が残っている、というところでの選択を迫られて、全員がたぶん同じ気持ちで、悌二のことは彼らに任せて、自分たちはあと2回の公演をやろうって決心をしました。それが危篤の連絡があった日のことで、公演を1回やった直後に亡くなったという連絡が入りました。それであと1回の公演をやったんです。日本では20人くらいのAPPのメンバーがいろんな作業を手分けして動きました。例えば「アドベラ」という液体の完全栄養食品がアメリカにしか売ってなくてそれを急いで手に入れたり、悌二の家族もパニックになっていましたからそのケアをしたり、主治医とのコミュニケーション、葬儀の準備やマスメディアへの対応まで全部やった。ひとりの人間の看護と死にたずさわるということに加えて、エイズという病気の持つ社会的側面にも力を合わせて対応しようとした。そういう気配をブラジルにいて、電話だけのやりとりでしたけれども感じましたから、これはもう大丈夫って、安心して最後まで公演することができたんです。

ブラジルに残って公演することは、悌二の最期とパフォーマンスのどちらが大事かという選択ではなく、信頼関係によってつながったひとつの事柄で、パフォーマンスだけが大事だからここにいるんではないんだな、と思ったんですね。悌二が死ぬかもしれない、死んでしまったというときに、今夜の、この300人の観客のために私たちはパフォーマンスをする。「人にものを見せるっていうことは、表現をするっていうことは、一体なんなんだろう」ってすごく思ったんですよ。飛行機に飛び乗って帰ってくることもできた。どちらを選んでも正解だったと思います。でも、それをしなかった。そういう覚悟で私たちはいままで表現をしてきたし、これからも表現をしていくんだなって思ったんですね。

……私は常に悌二と格闘していたという気がしています。同居するって決めたときに、私が日記に書いたのは「これからも私は悌二と闘い続けるのだ」ということでした。いま現在もそう思っているんです。ライバルという意味ではなくて、悌二との関係をつくるために自分の何かと格闘しながら生きているんです。

 

――お亡くなりになる前に、古橋さんはBuBuさんやダムタイプのメンバーに何かメッセージを遺されたんでしょうか?

 

BuBu 一切なかったんですよね。それぞれが聞いた最後の言葉というと、たとえば「お風呂」とか「スイカは?」とかね、そういうことばっかり(笑)。あ、でもね、私が最後にしゃべったのはブラジルと日本との電話でだったんですけど、彼はふたつのことを言いました。すでに意識が少し薄れてきていたのかな、言い方はぼけてるんだけれども話の筋は通っていて「昨日、***(注:BuBuさんの本名。悌二さんはBuBuさんの名付け親であるにも関わらずBuBuさんのことを本名で呼んでいた)がカルメンをやってる夢を見た」って言うんです。カルメンというのは、オペラ「カルメン」の曲でやる私の十八番のショウで、いろんなものを頭にのせて踊るんですけど「ホテルのゴミ箱を頭にのせてやってた」って言うんです。前に彼が「アーティストは道端のゴミクズみたいなものでなければならない」って書いてるのを読んで、私はすごくそれに共感していたんですけど、共感してますよってことを言ったことはなかったんですね。それを感じていたのかどうか知りませんけど、私がゴミ箱を頭にのせてやってて、それがすごく受けてる夢を見たって言うんです。

それから私が「ブラジル公演は大盛況で、すごくうまくいってるよ」って言ったら、悌二は「それはよかったね!」って言って、「ブラジルはエイズ教育の行き渡らない、経済的にも貧しい人がいっぱいいるから、そういう人たちに『S/N』を見てほしかったね。今のダムタイプのやり方ではそういう人たち全員に見せることはできないかもしれないけれども、でも少なくともそういう人たちをたくさん抱えるブラジルという国で『S/N』を上演することができて本当によかったね」って、非常にはっきりしたことを言ったんですよ。それが私に対する最後の言葉でした。それはエイズ教育に対する遺志を私に託したのだと受け止めているんですけど。なかなかそういうことは言語化しなかったですからね、誰に対しても。そんな朦朧とした意識の中で、よう言うてくれたと思います。

私がエイズ教育の実践を含めたセックスワーカーとして、自分の仕事や社会活動をすることを一番応援してくれたのが彼やったし、一番理解してくれたのも彼だったから、だからこれまでやってこられた。もちろん今も同じくらいの理解や応援をしてくれる仲間がいるから続けてるんですけど、一番最初が彼でした。私はそれまでも自分の事情でセックスワークを考えていましたが、悌二がHIV陽性だとわかった直後に風俗の仕事を始めました。最初はHIV陽性の人専門の売春婦になりたいと思ったんです。性的に他者と触れ合うことが、その人の生命力にいかに影響するかということを私はそれまでの人生で学んでいたから。HIVに感染したからといってセックスを禁じる今の社会は本末転倒だと思ったんですね。身体的にも精神的にもしんどい時こそ、専門家というかプロによる全面的なケアが必要だと考えました。社会福祉の進んだ北欧の国では、身体障碍者専門の売春婦がいるという話を聞いていたし、そういうことの必要性を感じて、それが私にできることであればしたいと思ったんですね。

それから、今、PWH/A(Person with HIV/AIDS。HIVやエイズと共に生きる人)を含めて、危険にさらされているのは、社会的に立場の弱い人たちだと思いました。性的に、経済的に、民族的に、立場の弱い人、日本だとセックスワーカー/風俗嬢のことが無視できないと思いました。エイズに関するさまざまな社会現象については、日本はこれから始まっていくと思うんです。そのために私は「S/N」を、「S/N」という事柄を最大限に利用してもらいたいと思っています。

「S/N」をやってみて意外だったのは、女性からの反響が予想以上に大きかったことです。私の個人的な解放の問題だと思っていたものが、女性というたったそれだけの共通項で、これだけたくさんの共感を得ることができるんだっていうのは、うれしいというよりも、やっぱりそうやったんか!っていう感じです。女性・男性という分け方はとてつもなく使い古されてるんだけれど、だからこそ考えられてない部分が多くて、それは旧フェミニストだけに任せておけることではないと思っています。

私は「明るい売春婦」になろうと思って、そして、なりました。どうしてこの仕事をしているのか、この仕事をして何を感じるのか、ということをもっと伝えていきたいですし、風俗嬢のためのネットワークづくり、そこには風俗ゲイも風俗ニューハーフもみんな含まれるんですけど、そのネットワークをつくりたい。風俗で働いている人たちが、どうすれば精神的にも身体的にも経済的にも法律的にも安全に働けるか、もしくは安全に働く権利があることを自覚できるか。それが今一番やりたいことなんです。

メモランダム 古橋悌二

メモランダム 古橋悌二

 

 

 ↑ 楽天ブックスには在庫があるようです

 

 リンク 新しい人間関係の海へ、勇気をもってダイブする 古橋悌二インタビュー

  

 

*1:古橋悌二(ふるはしていじ)

1960年生まれ。アーティスト。京都市立芸術大学在学中に友人たちと「ダムタイプ」を結成する。ダムタイプとして、また個人として国内外で精力的に作品を発表。1989年、シモーヌ深雪、DJ LALAらとともにワンナイトクラブ「ダイヤモンド・ナイト」を開始、ドラァグクイーン「ミス・グロリアス」として活動。1992年にエイズを発症。1995年にエイズによる敗血症により京都の病院で逝去。享年35歳。

現在、古橋のソロワーク「LOVERS」は、文化庁平成27年度メディア芸術連携促進事業「タイムベースト・メディアを用いた美術作品の修復/保存に関するモデル事業」として修復と保存が進められている。

*2:ダムタイプ

ヴィジュアル・アート、音楽、映像、建築、ダンス、コンピューター・プログラムなど様々な分野に興味を持つ複数のアーティストによって構成されるグループ。1984年、京都市立芸術大学の学生を中心に結成。以来、集団による共同制作の可能性を探る独自の活動を続け、美術、演劇、ダンスといった既成のジャンルにとらわれない、あらゆる表現の形態を横断するマルチメディア・アートとして内外で紹介されてきた。

*3:小山田徹(こやまだ とおる)

1961年生まれ。アーティスト。京都市立芸術大学教授。京都市立芸術大学在学中に古橋悌二らと共に「ダムタイプ」を結成する。ダムタイプの活動と平行して、90年からさまざまな共有空間の開発を始め、コミュニティセンター「アートスケープ」、「ウィークエンドカフェ」などの企画をおこなうほか、コミュニティカフェである「Bazaar Cafe」の立ち上げに参加。

*4:「S/N」(えすえぬ)

1990年頃に始動した、ダムタイプのワールド・ツアー・プロジェクトの総称。当初「シグナル/ノイズ」をキータームとして、インスタレーション作品「S/N#1」及び「S/N#2」に続くパフォーマンス作品として「S/N#3」が企画・制作されていたが、1992年10月、ディレクターであった古橋悌二が親しい友人らに宛てて自らのHIV感染とエイズ発症を手紙で告げたことで急展開した。その後、「S/Nの為のセミナーショウ」を経て1994年3月にアデレード・フェスティバル(オーストラリア)にてパフォーマンス「S/N」を初演。その後「ワーク・イン・プログレス」として更新されながら1995年10月、古橋の急逝まで約20ヶ月の間に12ヶ国16都市で上演され、各地で大きな反響を読んだ。また古橋の死後も彼不在のパフォーマンス「S/N」は5ヶ国6都市で上演された。
「S/N」とは、狭義にはこのパフォーマンス「S/N」(1994-1996)を指すが、パフォーマンスの記録映像はその後も上映され続け、広義の「S/N」の外延は明確ではない。
舞台は、高さ4m、幅16m、奥行き1.2mの壁で構成され、壁面には4画面のビデオ・プロジェクタと2台のスライド・プロジェクタにより、映像・テキストが投影される。壁の上の細長い通路が主なアクティング・エリアとなる。
(出典:展覧会「LIFE WITH ART」<2010年9月24日-10月23日、京都精華大学>資料内の泊博雅による解説より。一部編集。)

*5:BuBuさんのシーン

パフォーマンス「S/N」のラストシーン。「…BUBUがヴァギナから2ダースの旗を引き出すという、物議を醸すシーンもあります。これは奇術ショウのようですが、現実です。とてもおかしくて美しく、あまりの美しさに涙さえ流したと私に言ってきた人もいました。これが、私がパフォーマンス・アートと呼ぶものなんですが(笑)」(『メモランダム 古橋悌二』リトルモア刊・2000年・114頁「キャロル・ラトフィーによる古橋悌二へのインタビュー」より) 

*6:ダイヤモンド・ナイト

古橋悌二、シモーヌ深雪、DJ LALAらによって1989年に生まれたワンナイトクラブ。後に「Diamonds Are Forever」と名称を変え、京都クラブメトロなどで現在も開催されている。

*7:「WOMAN’S DIARY」(うーまんずだいありー)
90年代初期、社会的にHIV/エイズがゲイ男性の課題として取り上げられがちだったことに対して、女性もHIVに感染することはあるし、女性とHIV/エイズについて考えたり情報を発信したいという人たちが始めた「WOMAN’S DIARY PROJECT」が制作した女性のためのスケジュール手帳。月ごとに「からだ」や「仕事」、「セックス」などテーマを決め、そのテーマについての文章が毎日ひとつづつ記されている。巻末には全国の女性センター、性暴力や健康相談所のリストなどが掲載された。WOMAN’S DIARY PROJECTは、執筆・デザイン・編集・営業など、印刷以外の作業をすべて自分たちで手がけた。1996年に第1号発行。2010年まで制作された。現在このプロジェクトは解散している。

*8:張由紀夫(ちょう ゆきお)

1969年生まれ。アーティスト。京都市立芸術大学大学院絵画研究科卒業。http://www.otafinearts.com/ja/artists/akira-the-hustler/

参考資料:「3・11後の叛乱 反原連・しばき隊・シールズ」

集英社新書WEBコラム 第2回 雲の人たち 野間 易通

http://shinsho.shueisha.co.jp/column/after311/02/index.html

*9:APP(AIDS Poster Project)(エイズ ポスター プロジェクト)

古橋悌二のHIV感染とエイズ発症を知ってエイズを身近に感じ始めた友人たちが、当時の情報不足の中で自分たちにできることを模索する中で1993年に始めたプロジェクト。1994年の横浜国際エイズ会議で海外のNGOと交流し、日本ではHIV/エイズの予防やケアにかんする情報がまだまだ不足していることを痛感。必要な人に必要な情報を届けるべく、啓発資材を開発し、定期的なクラブパーティーの開催、コンドームの無料配布、高校生や保健師向けの講演等を実施した。

*10:

鬼塚哲郎(おにつか てつろう)

京都産業大学教授。ダムタイプの古くからの友人。1998年よりMASH大阪代表 。MASH大阪とは、ボランティア、厚生省HIV社会疫学研究班、大阪府・市のエイズ対策担当官によって構成される官民協働のプロジェクト。事業内容は大阪地区の男性同性愛者に対するHIV/STDの予防介入。MASHはMen And Sexual Healthの略。